ゴッホの生と死 7
ゴッホを待っていたのは、
「君はフランドル生れの生徒たちと同じ条件で学校の勉強をつとめるのはむりなことだ。
必要とあらば無料で授業を受けてもよい、しかし、これは君の場合だけの特典だよ」
・・・という同情めかした冷たいことばにすぎません。
ゴッホは、その前に、小さな地理書で、ベルギー南部のモンス近ぐにひろがるボリナージュという炭坑地帯に関する記事を読み、すでにイギリスで彼にとりついていた、炭坑の伝道師になるという願いで心をいっぱいにしていたから、この不許可は、彼にとって手ひどい打撃だったでしょう。
このことを弟に伝える彼の手紙はふしぎなほど平静ですが、これはかえって、彼の心の傷の深さを示しているようでもあります。
真に深い傷は、神経の表層をひりひりと刺激することはないのです。
しかし、不許可になろうがどうしようが、もはや彼は、ブリュッセルにとどまっていることは出来ません。
それは、「今よりもっと大きな資金を手に入れねばならない」からだけではありません。
もっと大きなものが、彼をボリナージュへ導いているからです。
彼は、テオあての手紙で
「聖パウロは説教し始める前、つまり異邦人の間で彼本来の仕事をすべくあの伝道の大旅行に出発す
る前にアラビアにいたのだ。
もしぼくがそうした地方で3年間つねに学び、つねに観察しつつ静かに仕事をすることが出来たなら、きっと人びとを真に傾聴せしむるに足るだけのものをたずさえて帰って来るにちがいない」と言います。
年末、彼は、自費でボリナージュにおもむき、パチュラージュに落ちつくのです。